喧嘩の極意

話が飛ぶけど、昔からかもしれないけど、最近「許せない人」が非常に増えているような印象を受ける。「許せない人」というのは“私が誰かを許せない”というわけではなくて、“人の失敗を許せない人々”ということ。

誰かが失敗や過ちを犯すと、鬼の首を取ったようにつるし上げて叩き上げる人を見かける機会が非常に多くて、それはネットだけじゃなくて現実社会でもそのような機会が多い。
また、「失礼な行為」に対して激しく怒る人もとても多くて、「失礼」に関して現代人は非常にナーバス。失礼に当たらないように振舞うのは「礼儀作法」の一環なんだと思うけど、礼儀作法全般(日常の行動や言葉遣い、服装など)に関しては意識が低い人が多いのに、失礼な行為を一度でも受けると相手の非を探し出し、全身全力で攻め立てる人もいる。
特に一番怒るのは、失礼または被害を受けた本人じゃない第三者が非常に多い。

前に仕事で初めてのことでよくわからないままにある人々に対して失礼なことを伝えてしまったことがあって、何件か激怒の電話を受けたことがあるんだけど、それも全部本人じゃなくて第三者で、指摘されて失礼にあたることがわかったわけなんだけど、いきなり電話口で怒り出さなくてもいいんじゃなかったのかって今でも思う。まず30秒でも対話してみて、電話口の相手から誠意が感じられないようなら怒り出してもよかったんじゃなかったかと。出ていきなり激怒してるとこっちも伝えることも伝えられないし、とりあえず謝罪して、電話を切った後に何も伝えられなかったような気がした。これじゃあ、私が悪い人のままだ。

それとね、「許せあえない世の中」はお互い生きずらいように思う。
誰だって失敗はあるし、迂闊なところや浅はかなところは誰だって持っていて、迂闊や浅はかなところが人より多い人もいるはずだし、そういう私もそんな部分を多くもっていて、よく失敗するんだけど、そういう時に万が一、頭の回転が早い人とぶつかってしまうと大抵自分の非をほじくり出されて叩き上げて、退路を無されて、最終的には相手の考えに従わせれることになるんだけど、そんな時はすごく深く傷つくし、トラウマになって色んなことがこわくなる。人生はトライ&エラーだっていうけど、あまりに酷い目に遭わされると先に進む勇気を無くして、近づくのすらこわくなるし、自分が許してもらえなかったことは同じことをした他人も許せなくなる。そういう連鎖をやめたいし、厳しくお互いをしめつける世界は、窮屈で息がつまりそう。

別に何でも許す慈愛に満ちた優しさは持たなくてもいいんだけど、「自分」が傷ついたことを伝えるのが重要で、深く傷ついてもいないのに、自分が正しくて相手が間違っているっていう決めつけた態度で「怒り」を伝えるのはどうかと思うんだよねー。

結局、自分が理解して体得していることを、理解できないし出来ない人は沢山いるし、自分とは違う考えを持つ人がいるのは当たり前なんだから、そこを自分と自分に同調する人々を軸にして考えるのをやめるようになれたらいいのになあ、なあんて。

彼氏が前に私が「つまらない人ばかりで辛い」と愚痴を言ったら、「つまらないと思う人ほど興味を持つようにしなよ。つまらないと思っている人ほど自分(私)が持っていないおもしろさを持っているかもしれないよ。それを見つけるのが楽しいんじゃん」というようなことを私に言ってくれて、すごく尊敬した。